GINZA SONY PARK PROJECT

メニューを開く

銀座とまちとソニービルと。

コラムニスト
泉麻人
作家
椎根和

TALK SESSION #03

開催日時
2016年8月6日(土)17:00〜18:30
開催場所
ソニービル 8F「コミュニケーションゾーン OPUS(オーパス)」

銀座ソニーパークプロジェクトを記念してのトークセッションも3回目。今回は、東京の街並みや昭和サブカルチャーなどに詳しいコラムニストの泉麻人さんと、雑誌『POPEYE』や『Hanako』などの編集を通して銀座を見つめ続けてきた椎根和さんをお招きし、「銀座とまちとソニービルと。」をテーマにお話いただきました。

2人が見てきた銀座とソニービル

泉:今回お話しさせていただくにあたって、ソニービルのパンフレットをもらったんですが、そこに結構いい古い写真がたくさん入っていて、まずはそれを見ながら話せればと思います。
(ソニービル竣工前の銀座数寄屋橋の写真を見ながら)
これはいつ頃の写真か推理したんですけど、右側に見える森永の地球儀型の広告塔ができるのが1953年、昭和28年です。写真の左下を走っているのは都電ですね。旧塗装で、確かモスグリーンに薄い水色の車体だったかな。そんな時代のころで、そうするとこれは多分、1958、9年くらいでしょうか?ソニーさんはというと、その時代にはもうテープレコーダーを出していましたよね。当時から結構画期的なことをやられていました。
僕は、物心つくかどうかくらいの幼稚園児の時、親の買い物に連れてきてもらって銀座デビューしました。この写真の左下の部分、当時の丸ノ内線の西銀座駅の出口なんですけど、出てくると不二家があって、その2階の喫茶室でプリンアラモードを食べさせてもらいましたね(笑)。椎根さんは、東京へ来られたのはもう少し後ですか?

椎根:そうですね。高校まで東北で、大学で東京にきたので、銀座デビューは大学でした。
僕は小津安二郎の映画が大好きなんですけど、中年のおじさんたちが銀座の小料理屋に集っては近況をしゃべる場面がいろんな作品に出てくるんですね。しかも作品は違っても、いつも銀座の『若松』という木彫の看板のお店。
これだけ毎回出てくるんなら、本当に銀座にあるに違いないと、大学で上京して初めて銀座に行ったときに探したら、五丁目の細い路地を入ったところにありました。でも、本物の『若松』は小料理屋じゃなくて甘味処だった(笑)

泉:『若松』は「あんみつ」のネーミングを考えだした店だそうですね。

椎根:その後、大学を出て『婦人生活』という雑誌の編集者になりました。1964年、東京五輪の年です。婦人誌の全盛期で、広告も婦人誌に集中しているような景気の良い時期でした。
最初に担当することになったのは岩田専太郎という挿絵画家の先生。司馬遼太郎や三島由紀夫、吉川英治、柴田錬三郎といった有名な小説の挿絵の多くはこの人でした。毎月原稿を取りにうかがうんですが、岩田先生は必ず「ちょっと銀座に行こう」と誘ってきて、銀座でバーを4軒くらいははしごした思い出がありますね。

泉:確かに、東京五輪の頃はちょうど雑居ビルにバーが入り始めた頃でしたね。そのちょっとあと、1966年にソニービルがオープンします。
僕が当時のソニービルで一番印象に残っているのは、入口で、「空気の缶詰」を配っていたことかなあ。空気の缶詰って、つまりは何も入っていない缶詰っていう洒落なんですけどね(笑)。あと、アポロが月にいったときは宇宙食を配るなど、当時からソニービルは結構新しいことをやっていた記憶があります。
椎根さんは何か思い出ありますか?

椎根:ソニービルのイベントで感動したのは、1969年の「エレクトロマジカ」という現代芸術展ですね。ナム・ジュン・パイク、ヨシダミノル、山口勝弘、坂本正治といったアーティストが、おそらく日本で初めて、現代芸術とはこういうものだという美術展を大々的に開催したんです。アクリル樹脂やテレビ受像機をふんだんに使った作品が多かったですね。

泉:僕の世代ですと、ナム・ジュン・パイクは1980年代初期のポストモダンと言われている頃に活躍していた人というイメージですけど、その原点が「エレクトロマジカ」だったわけですね。

椎根:そうですね。パイクは現代芸術の巨匠中の巨匠とされるヨーゼフ・ボイスとも呼応して、世界中のアートシーンにものすごく大きな影響を与えていきました。当時はアンダーグラウンドのアートも全盛だったけど、それらとも一線を画す雰囲気が「エレクトロマジカ」にはありましたね。

泉:ソニービルといえば、1階に入っている『パブカーディナル』も、当時高校生の僕にとって憧れの場所でした。

椎根:やや半地下にある感じがとてもいいですよね。『平凡パンチ』の編集部にいた頃、僕も取材の打ち合わせによく使っていた思い出深い場所です。
近くにもいい店が多かったのですが、時代が経つと共に無くなっていってしまいました。ソニービルの隣にエルメスが出店した時に、おでんの『お多幸』やバーの『幻の桜』も移転してしまった。芸能人対談で使っていた和光の裏手の料亭も、銀座三越が拡張したため去ってしまいました。デパートやブランドビルが拡張すると、いい店が消えちゃうんですよね。

泉:そうやって消えてしまった店がある一方で、銀座には、頑張って残っている老舗もまだたくさんありますよね。こういう老舗が頑張っているおかげで、銀座に行けば「真のもの」が見つかるという、銀座の核みたいなものはずっと保たれているんじゃないかと思っています。

椎根:僕は、銀座は20年ごとに大ブームを起こすという考えを持っています。
1950年は戦後5年目の朝鮮戦争特需の時代で、とにかくどの会社も潤っていて、毎晩銀座の街には、会社の経費で飲む「社用族」が溢れていました。一番大きなキャバレーには、約700人くらいのダンサーが所属していたりね。
20年後の1970年には歩行者天国がオープンして、さらに翌年にはマクドナルドも開店して、そのときから銀座はファミリーで来て遊ぶ街になりました。そして1990年には、海外のハイブランドが一気に入ってきた。ブランド品にもレストランにも人が殺到して、"Reserve Ginza"という特集号をHanakoで出したくらい、銀座のお店は予約しないとどこにも入れない位になっていたのを今でも覚えています。そのあと、2000年代になると今度はファストファッションが入ってくる・・・といった風に、銀座はどんどん変わってきました。
これからの銀座にも、銀座を自分ごととして考えて、その時々の時世に合わせて行動を起こしていくような人が必要だと思います。そういう人が、銀座をまた再生してくれるんじゃないかな。

世界中の若者の耳を占領したウォークマン

椎根:1970年代の終り頃、僕は『POPEYE』の編集部にいました。さっきの銀座に歩行者天国ができた頃ですね。
そんなある日、木滑良久編集長が「ソニーの盛田さんに会ってこい」と言うんです。なんでもすごいものをソニーが発売するらしいから、その最初の広告を『POPEYE』に載せたいと。
僕は機械が弱いので、最初は抵抗したんですけど押し切られ(笑)、盛田さんに会いに行ったら、「ウォークマンは世界中の若者の耳を占領する」と言うんです。その後すぐ、盛田さん自身がニューヨークのワシントン・スクエアでウォークマンを聴きながらダンスをしている様子が雑誌の表紙になり、瞬く間にウォークマンが世界中に普及していきました。

泉:僕はまさにウォークマンに耳を占領された世代です。1979年に大学を卒業して会社に入るんですけど、朝の通勤がつらくて、最初の月給でウォークマンを買い、YMOとかを聴きながら通勤することで五月病を乗り切りました。

椎根:そういえば木滑編集長がある日、盛田さんから金のウォークマンをもらってきたんですよ。特注の非売品。理由を聞いたら「ウォークマンのアイデアは俺なんだよ」って言うの。実は木滑さん、以前スキー場で盛田さんと会ったことがあり、そのときに「木滑君、君はどんな電気機器が欲しい?」と聞かれたんで、「スキーをやりながら音楽を聴ける機械が欲しい」って答えたんだそうです。

「だから俺が最初のアイデアを出したんだ」って自慢されたんだけど、その後、「自分がウォークマンの発案者だ」って人に僕、5〜6人は会ってるんだよね(笑)。

泉:確かに、ウォークマンが出てきてからスキー場での滑り方が変わりましたよね。それまでは皆がスピーカーから流れる曲を聴きながら滑っていたけど、ウォークマンが発売されてからは、各々が好きな音楽を聴きながら自分がスキーのプロモーションに出てるような感じで滑ることができるようになりました。僕もよくスキー場に持っていったなあ。

椎根:そういえばこの前新聞で読んだんだけど、ウォークマンは世界中で約4億台も売れたそうです。本当に世界中の若者の耳をウォークマンが占領してしまった。創業者の盛田さんと井深さんの先進的な考え方が、ソニーをここまでの企業にしたんだと思います。

これからのパークに期待すること

椎根:ソニービルの思い出だと、以前はソニーファミリークラブというショップがビルの5階にありました。世界の隠れた名品が売られてるんだけど、そのセレクト力がものすごい。当時買ったスイスのエベラールという時計が本当に品がよくて、今でも持っています。

泉:僕は『POPEYE』で紹介されていた男性用オーデコロンの「4711」というのをソニービルで買いました。

椎根:イタリアンレストランも『サバティーニ』と『あるでん亭』の2軒が入っていて、どちらもよく通いました。1982年くらいから始まったイタリアンブームより前から、あそこのスパゲッティはうまい!という話があったりもしたことを考えると、イタリア料理の先鞭をつけたのもソニービルと言えますよね。

泉:そのソニービルが来年の3月に解体されるんですね。
解体したあと、2020年までしばらくはパークにしておくというのも面白い発想ですよね。
今後のソニービルですが、僕は、最早ずっと「空き地」のままでもいいんじゃないかなと思います(笑)。そのままにしておいて、そこから色々なメッセージの発信をし続けるというのもありなのではと。建物の立ち並ぶ銀座ですから、パークのように完全なる空き地を持つこと自体がまず評価されるだろうから、そこにまた何かを建てるようとなると、ハードルが上がりますよね。

椎根:僕は銀座だからこそ、鉄とコンクリートとガラスじゃなく、敢えて木造の建築を作って欲しいなあと思います。それも宮大工建築。法隆寺のように千年もつような、ね。皆がイメージする「ビル」の発想とは違う木造建築が銀座にあって、しかもそれが最先端企業のソニーとなったらおもしろいよね。

PROFILE

泉麻人
泉麻人
1956年東京生まれ。1979年慶応大学卒業後、週刊TVガイド編集部などを経て独立、ポパイ、オリーブ誌などにコラムを執筆。東京の街並、昭和サブカルチャーなどをテーマにした著作が多い。現在、ウェブ「銀座オフィシャル」にて、銀ブラ史のエッセーを連載中。
椎根和
椎根和
1942年福島県生まれ。早稲田大学第2商学部卒業後、「婦人生活」編集者に。その後、平凡出版(現マガジンハウス)で、「平凡パンチ」「アンアン」の編集に携わり、講談社開発室、「日刊ゲンダイ」を経て、以後、「POPEYE」チーフディレクター、「週刊平凡」編集長、「Olive」「Hanako」「Comicアレ!」「relax」「LIKE A POOL」などの創刊編集長を歴任。これまで関わった雑誌は11誌に及ぶ。著書に、「銀座Hanako物語」「平凡パンチの三島由紀夫」「POPEYE物語」「オーラな人々」「フクシマの王子さま」、荒井良二との共作絵本に「ウリンボー」がある。