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銀座の庭

銀座の庭

(1966年5月1日 日本経済新聞朝刊より)

この4月29日は、私にとって忘れ得ぬ日になった。なぜなら、長い間そのアイデアに苦しみぬいてきたわれわれ自慢の新ビルが、東京は西銀座の一角に開館したからである。とはいっても、このビルの建設について、手放しで喜んでいいのかどうか、いまだに悩む点が無きにしもあらずである。その一つは、電気の専業メーカーであることをモットーとしてきたわれわれが、日本で一番値の高い土地—すなわち、それは世界で一番高い土地だと思うが—そんなぜいたくな所に、ビルなどを建てること自体正しいのかどうか。人によっては、一電気メーカーの分際で正気の沙汰とは思われないかも知れないし、思い上がりもはなはだしいと言われるか知れない。第一、やっている私自身、その当時、とんでもないことだと思った。ついこの間まで、やるべきことではなかったのではないか、とまで真剣に考えていたのが本音である。がともかく、ビルは完成した。きょうはそのいきさつを述べてみたい。

はじまりは小さなショールーム

まず、昭和34年、わが社は西銀座(数寄屋橋)の一角に、小さなショールームをもった。ついで37年には、アメリカ・ニューヨークの中心でもある5番街の47丁目にも、小さなサロンを開いた。その日本の中心、数寄屋橋のショールームをもっと拡張しようという勢いが、ついにわが国でも前例のない構造のビルを建てるところまでいってしまったのである。「いってしまった」とは無責任すぎる言い方かもしれないが、やむにやまれぬ勢いという方が正直であろう。具体化したのは、今からちょうど2年半前である。ともかく、いろいろな見方、批判はさておいて、建てると決めた以上は、最大の効果をあげるべく全力を尽くそうと心に決めた。

総合ショールーム・ビルへ

まず、設計は、東京オリンピック駒沢公園を担当された芦原義信氏にお願いすることにした。ところが地上階はわれわれのショールームにすることは当然だが、その高価な土地に、われわれ本社事務所をおくことはもったいないことだし、第一、本社をつねに工場といっしょにおくという、創立以来のポリシーにももとる。では貸事務所にするか、これまた、わざわざそんな所にビルを建ててそんな営業をする意味合いはない。では、いったいどうすればよいのか。数度にわたる徹夜の会議が続いた。その結果、アメリカのマーチャンダイズ・マートのように各社各種の商品の総合ショールーム・ビルにしたら、もっとも意味あるものになるだろうという結論になった。

そのためには、来られたお客さまが、つぎつぎと興味をもって見て廻っていただけるような構造でなければならない。そこで頭に浮かんだのがニューヨークにあるフランク・L・ライト氏の設計したグッゲンハイム美術館である。エレベーターで上まであがると、あとは渦巻き状の通路を、絵を見ながら歩いて行くと、自然に下まで来てしまうという構造である。

日本一の庭

これを芦原先生にお話ししたところ、この狭い土地(706平方メートル)で、そうした効果を出すためには、かなり思い切った構造をとらねばならないという。いろいろご苦心された末、芦原先生は、ハナビラ構造というものを考え出して下さった。それは、1つの階を田の字型に4つに分け、真ん中の柱を中心に4つのセクションを少しずつ(90センチ)段違いにして、ひと回りでちょうど1階分下がるという四角のハナビラがうずまき状に回っているおもしろいアイデアである。われわれは、文句無しに、これでゆくことにした。これで建物全体は、縦に連続して上から下まで何階という区切りなしに、縦型のプロムナードとして成り立つことになるのだ。そのかわり、エレベーターは田の字の外側につけなければならない。芦原氏からは、交差点に面した角地は、ぜいたくだけれども、あき地を作って庭にしようという提案があった。なにしろ、”土1升金一升”の土地33平方メートルあけること、これ以上のぜいたくはないのだがそれならばここを日本一の庭にしようという大それた夢をいだいて、思い切ることにした。おそらく、こんな高価な庭はどこにもないだろう。また、われわれは、ショールームばかりではあまりにも芸がなさすぎるので、レストランやショッピングストリートや駐車場などもほしいという注文を出し合った。

あれやこれやで、一応青写真ができたのが半年目、工事に2年の歳月がかかった。ところで、33平方メートル余のぜいたくな庭であるが、ここにもまたわれわれは種々の趣向をこらした。平日は一面に緑の木を植え、銀座を散歩する人に緑を味わってもらい、またあるときはその植木をとり払って一面池にして涼を楽しみ、またあるときは平らな地面にして催し物などができる会場ができるようにと、欲ばった構造にした。斬新なビルとその前面の夢の庭と—われわれは限りない希望を胸ふくらませて、初めてドアが開かれる一瞬を見守ったのである。

盛田 昭夫